エッセイ・コーナー  KAZUOは要りませんか?

しまむらかずおが描くつれづれ(その5)  第21話~第25話

25-忠臣蔵

 

第25話 「忠臣蔵」       by しまむらかずお

  

時に元禄15年12月14日

江戸の夜風を震わせて

響くは山鹿流儀の陣太鼓…

おお、あれはまさしく赤穂浪士の討ち入りじゃあー。

 

これは、「お客様は神様です。」との名言を残した歌手、三波春夫。

彼の晩年のヒット曲、「俵星玄蕃」の一節である。

8分半もの大作で、浪曲師出身の彼ならではの作品。

途中に浪曲や、名調子の口上が入って

実に高揚感溢れる作品である。

 

三波春夫は、1964年の東京オリンピックの年、

「ハアー あの日ローマで眺めた月が…」と五輪音頭を明るく歌い

1970年の大阪万博では「こんにちは、こんにちは、世界の国から…」と

歌いあげた国民的歌手である。

 

国民的歌手でも何でもない私だが

昨日、高知市内の老舗の喫茶店で

クリスマス・ライブと銘打ったコンサートを開かせていただいた。

休憩を挟んで約2時間、全14曲を披露した。

 

勝手に「シネマ・ホール」と呼んでいるその会場は

狭いながらも階段状に椅子が並べられたとってもいい会場で

約50人の方々にゆったりと音楽を楽しんでいただいた。

 

10月にはここで、「バースデイ・ライブ」もやらせていただいたが

今回は、我がバンド「カノンズSP」の中に新しく誕生した

アコースティック・チーム、「カノンズat.」の

5人組による初めてのライブだった。

楽器はギター、ベース、ピアノのみ。

5人のうち4人がボーカル、コーラスを担当するという

じっくり、ほんわか型のユニットである。

まさにこの会場にはぴったりのサイズの構成となった。

 

ライブでは、ウッドベースを抱えた野村茂は全身サンタクロースで登場し

ピアノの藤島裕之はトナカイに、

コーラスの中山知子と岩見佳子は真っ赤なサンタ帽とミニスカート。

私自身も黄金のサンタ帽で登場…

このところ「かぶりもの」づいている私たち。

この先、どうなってしまうのだろう。

 

それはともかく、その恰好で歌う、「ホワイト・クリスマス」のハーモニーも

楽しげな「サンタが街にやってくる」もどうやら好評だったようで

良かった良かった。

 

それにしても「at.」のサウンドはいい。

これまでの「SP」と違って、ドラムもエレキ・ギターもないが

逆にその分、しっかりと歌を届けられる。

とはいえ、一人ずつの演奏力が求められ、その精度を要求される。

実はとても大変なのだが、実に楽しい。


新結成となってから日も浅く、練習不足は否めず

ところどころミスはあったが、温かなお客さんたちに助けていただきながら

デビューのライブを何とか終えることができた。

「すごく良かった」といっぱいの方々に言ってもらったので

少しホッとしたところだった。

 

その夜は、スナックを貸し切りにして

20人ほどの参加でディナー・パーティー。

その後、カラオケ・ルームに移動して3時間。

みんなそれぞれに、ひっきりなしに歌って、楽しい時間となった。

 

その翌日、眠くて眠くて、まったりとした1日を過ごしてしまった。

このところずっとヒマもなく、どうやら疲れていたらしい。

コタツの中に入ったまま、ふっと「今日は何日?」とカレンダーを見たら

12月14日…

あっらー、赤穂浪士の討ち入りの日じゃないの。

ワタシとしたことがそんな大切な日を忘れてたなんて…。

実は私は「忠臣蔵」が、とにかく好きなのだ。

 

小学生の頃、

「開店大売り出し」などというチラシを、

なんとセスナ機で空中から大量にバラ撒くなんてこともあった時代。

空に舞うペラペラのピンクや黄色のチラシをみんなで追いかけた。


「東映」が時代劇の絶頂にあったあの頃。

暮れになると決まって上映されるのが「忠臣蔵」。

そのチラシも空中から舞い降りた。

オールスター総出演の「総天然色」映画。しかも、「70ミリ」ワイド版…。

そのチラシを拾いながら胸を躍らせたものだ。

お正月のお年玉を握りしめて、映画館に走った。

 

五万三千石、所領も捨て、家来も捨てての刃傷でござる。

武士の情けをご存じあらば、その手、放して今一太刀、

討たせてくだされ梶川どのー。

 

歌にもなった「刃傷・松の廊下」。

昭和36年に真山一郎が歌い、

かの三波春夫も、藤圭子も、最近では島津亜矢も歌っている、

浪曲歌謡曲の台詞である。

 

その一太刀が振り降ろされたのは西暦1701年の3月14日。

その後の、大石内蔵助以下の家来たちの630日に及ぶ仇討の物語。

見事本懐をとげた赤穂の浪士たちは、丁度「いろは」の文字数に同じ四十七士。

彼らは、当時の浮世絵に英雄のごとくにプリントされた

 

仇討の1週間後には既にその仇討がテーマの芝居が上演され、

その後、歌舞伎、浄瑠璃、浪曲、詩吟、講談、落語、そして映画。

ありとあらゆる場でこの「忠臣蔵」は劇化され、評判を呼んだ。

つぶれかかりの劇団は、これさえ舞台にかければ息を吹き返したのだそうな。

まさに国民的な物語である。

 

とはいえ、この47人の振る舞いは

今でいう、テロ行為である。

殿様は即日切腹、お家断絶、所領召し上げの罰を受け、

城の開け渡しのあとは、俸禄を失った浪人、

いわば失業者たちが起こした事件である。

 

その罪状は数知れない。

スパイ活動をくり返し、吉良の暗殺計画を練り上げ、

武器を用意して集まった。…凶器準備集合罪。

未明に無断で吉良邸に押し入った。…不法家宅侵入罪。

扉を打ち壊した。…物品破損罪。
寝ていた侍たちを叩き起こした。…迷惑条例違反。

刀を振り回して斬りつけた。…傷害罪。

救急車も呼ばすにそのまま放置した。…傷害致死罪。

目当ての吉良を見つけて切腹を要求した。…自殺ほう助罪。

自害の意志がないとみるや殺害した。…殺人罪。

首をはねて持ち去った。…死体遺棄罪。

本懐をとげて勝ちどきを上げた。…騒乱罪。

吉良邸を引きあげ、徒党を組んで無断で町を練り歩いた。

…道路交通法違反、などなど。

 

ま、それが「天下の仇討」となると許されたのだろうか。

いずれにしても、目的をもって長期間の周到な準備の末、

見事達成した彼らに、大衆は拍手を送ったのだ。

その事件が今日だった。

今から313年も前のことだ。

何がそれほどに大衆を引きつけてきたのだろう。

 

当時の将軍は、徳川綱吉。

「生類憐みの令」で知られる、「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれた将軍である。

その事件によって、「お上」のご沙汰の不条理を問うことで、

大衆の喝采を浴びたのだろうか。

 

折しも今年のこの日は、衆議院の総選挙。

現代の大衆の「民意」は、時の施政者に

何らかの訴えを届けることができたのだろうか。

 

武器を持つ戦いで、何かを変えることは、もう要らない。

だからこそ、民主的な「声の届く」仕組みがあるのだが、

しっかりと「声を届ける」人々と、

ちゃんと「声を聞き入れる」人々が必要だ。

みんなが幸せになれる…

そのための変化なら大歓迎だ。

2014.12.15

 

 


▼エッセイへのご感想をお書きください。

(注)文章の内容がこの欄にふさわしくない場合には、掲載しない場合があります。ご了承ください。

コメント: 5
  • #5

    sakura (日曜日, 21 12月 2014 00:00)

    「殿中でござる〜」のヤツですよね!
    年末になったらよくやってましたね。
    そういえば、最近ないじゃないですか?
    時代かなぁ⁉️
    そんなにも多くの罪を、犯しながらも変えたかった世の中。
    私も変われたらもっと楽しく生きれるかなぁ。

  • #4

    カノン (水曜日, 17 12月 2014 23:45)

    みんなが幸せになれる…
    大好きなフレーズですね。

    今回は「SP」から「at.」に変革されて、何度めかのコンサートに来てくれた友人も「アットホームな感じですごく良かった」とメッセージをくれましたよ。

    Facebookでのコンサートの様子も、皆さんの笑顔も素敵でした。

    ステージ上の“しまむらかずおさん”から
    微笑み会えるKAZUOさん


    素敵な変化じゃないですか?(o^^o)

    で、時々「SP」❗️
    すごい ずっと楽しめる*\(^o^)/*

  • #3

    土佐のおんちゃん (水曜日, 17 12月 2014 14:18)

    忠臣蔵の主人公、大石蔵助(良雄)は、無類の酒好き、歌好き、○○好きで、人の目をくらます為に討ち入りまでは日々夜遊びに講じていたそうな、はてさて、どこぞの誰かさんのような・・・

    そうですか・・・忠臣蔵がお好きですか・・!

    わたしも大好きです!

  • #2

    レッド (月曜日, 15 12月 2014 22:40)

    KAZUOさん、エッセイ読んだら、クリスマスライブが、真ん中に挟まっていますね(^^)

    本当は、それが本題だったりして(笑)

    だから、クリスマスライブの感想を書かせてもらいますね。

    イルミネーションの中を進んで、少しほの暗い空間に入って…。

    しっとり始まるかと思ったらサンタさんが出てきて(笑)

    かと思ったら、ウッドベースをじっくり聴かせてくれて。

    KAZUOさんの声はもちろん、ピアノさんやコーラスさんも、いつもとは違う雰囲気をいっぱい聴かせてくれて、そして、見せて…魅せてくれましたね。

    アコースティックな雰囲気の中で、ソロで聞いていた曲は、厚みがあるように聴こえて。

    アコースティックな雰囲気の中で、カノンズバンドで聴いていた曲は、しっとり聴こえて。

    ラストのコーラスさんの「ごめんなさい」も、かえって、KAZUOさん始め、カノンズさんの絆やあったかさを感じて、私は良かったです(^^)

    あっという間の、数時間でした。

    いい時間をありがとうございました♪♪

  • #1

    あっぷる (月曜日, 15 12月 2014 17:45)

    KAZUOさん、今更ながらにですが、すっごい、一つひとつのことに詳しいんですね〜(^^)

    これが、読み終えての第一声です(笑)

    「こんなの、感想コメントにならないよ」と、自分にツッコミながら、「リアルタイムで読みましたよ〜」との嬉しがりで送信させてもらいますね♪♪

24-時


第24話 「時」      by しまむらかずお

 

 「時」は、老若を問わず

誰にでも同じ速度で流れている。

実に平等で公平である。

 

…そのはずなのだが

ものすごく速く過ぎてゆくと思うのはなぜだろう。

多忙な日ばかりではなく、まったりする日もあったのに

それでも、速いと感じるのはなぜだろう。

それに、「時間」という量もみんな同じなのに

「時間が足りない」だとか、「濃い時間だった」などと感じるのはなぜだろう。

 

「このまま時間が止まってくれたらいいのに」と

無理なことを願い、

「こんな時間、速く過ぎてしまえばいいのに」とも思う。

実に勝手なものである。

いい時間も嫌な時間も、同じスピードで過ぎてゆく。

 

変なもので、随分昔のことを「まるで昨日のこと」のように思い、

たった一週間前のことを「随分昔のこと」のように思うのは

いったい何が違うのだろう。

 

時はいつも… 哀しみ流して… 

いくつもの昔話を忘れず綴るもの…。

 

これは「ぐうぴいぱあ」当時の2枚目のアルバム、

「時の流れの中で」に収録した、

「時」の冒頭の歌詩である。

 

当時私は確か30歳ちょっと。

その頃としては珍しい16チャンネルのレコーダーを使って

全曲スタジオ録音で仕上げたアルバムだった。

 

その1カ月ほど前にできた「組曲・KAZUO」…。

これは自分の半生を綴ったもので、10曲、45分の大作。

この「時」は、それを締めくくる歌だった。

 

その頃、私たちのバンドは500席のグリーホールで

年に3回の定例コンサートを打っていた。

約2時間のステージで歌っていたのはほとんどがLove Song

出会いの歌から別れの歌まで、様々なシーンを描いていた。

 

あるとき、それが急に虚しくなった。

恋の歌は、ときに私小説的になったり、

流行りの曲調での悲しい歌にしつらえたりして、

要は、青臭い物語を、その気になって作っている、

そんな気がしたのだった。

 

いやそれは、今だからそう言えることで

当時は、大真面目にこしらえていたし、

泣きながら歌うほどに、真剣ではあった。

 

そんな私が、自分の半生を歌うことになったのは

一本の映画のせいである。

「砂の器」…。

1974年に制作されたもので

松本清張原作、橋本忍・山田洋二脚本

野村芳太郎監督による不朽の名作である。

 

その映画が封切されたころ、私はまだハタチ代。
とはいえ、既に家庭を持ち、子どもがいて

自宅の新築も終えていた。

そんな私は、順風満帆とも言えるかも知れないが

ある欠損を抱えていた。

それが「砂の器」で露わになったのだった。

 

映画は元々、ある殺人事件を追う推理小説なので

もちろん「犯人探し」が続いてゆくのだが

映画の後半のほとんどは、

オーケストラの演奏会のシーンにかぶせて

ふるさとを追われた親子の旅路が描かれてゆく。

ピアノをメインとした交響楽、「宿命」がそれである。

 

カメラは日本の四季を美しく織り交ぜながらその旅を描いてゆく。

波も凍りそうな岬のはずれで

ぼろぼろになった遍路姿の親子は

寒風に吹き晒されながら、ささやかな食事を摂る。

病気の父親に、幼い男の子がおかゆを口に運んでやっている。

やがて桜満開の季節を過ぎても、ゆくあてのない親子の旅は続く。

その後、とある片田舎の駐在所の保護を受けた親子は

やがて、父親の療養のために、引き裂かれる運命となる。

 

大八車に乗せられて運ばれる父親を追って

泣きながら線路づたいに走り出す息子。

そのシーンに壮大な交響曲がかぶってくる。

汽車の出発に間に合った。

もう二度と会えないかも知れない親子は、固く抱き合って泣きじゃくる。

音楽はさらに大きくなる。

そのシーンにいたく心を揺さぶられた。

 

涙が流れて止まらなかった。

どうしてこれほどまでに心が揺さぶられるのか。

そのときは分からなかった。

 

次の日も映画館に行き、もう一度観た。

そしてその訳がようやく分かった。

私には実の父がいて、幼いときに出て行ったまま帰って来なかった。

顔も見たこともない父親で、恨みこそすれ、

愛しいなどと思ったことはなく

会いたいと思うこともなかった。

しかし、その映画で生まれて初めて

「父への情愛」を体験してしまったのだった。

 

そんな時期、福岡から大きな荷物が届いた。
差出人は母方の伯母だった。

荷を開くと1メートル角の立派な額に入った油絵。
「絵描きだった」と聞いていた父の絵だった。

「かずおに送ってほしい」と頼まれたのだそうだ。

父は生きていたのだ。

 

絵は温かみのあるものだった。

窓から柔らかな陽が射すテーブルに

オレンジ色のチェックの布がかぶせられ

その上には一輪の白い花が挿された花瓶。
三層に積み上げられた書物。
黄色い夏みかんと真っ赤なりんご。

それらがていねいに書き込まれた静物画であった。

なぜか心が少しなごみ、

何となく「許せる予感」がした。

 

その後、「砂の器」は人気を博し

映画の各賞を総なめにした。

主題曲の「宿命」はLPレコードとなって発売され

私も購入して何度も聴いた。

映画も度々再上映された。

その頃に、私の「組曲・KAZUO」は生まれてきたのだった。

 

組曲は、生まれてから今までを、時の順に歌ってゆく。

母子家庭だった自分。

真っ赤な火柱が上がり、焼け落ちてゆく古い母子寮。

翌朝の青白い悲しい風景の記憶。

住む家を失って、母の勤め先の保育園で暮らしていたこと。

「ままこ」扱いにされた幼少期。

それでもやっぱり愛しさを隠せない父への歌。

昨日より今、そして明日への切ないほどの憧憬。

…自らの人生を振り返り、泣きながら作った歌だった。

そのフィナーレが「時」だったのだ。


「時」の録音は、できたばかりの市内のスタジオで行われた。

「ぐうぴいぱあ友の会」のみんなに来てもらって

コーラスを入れてもらった。

 

コーラスの部分はこうだった。

…人は一人で生まれ、一人で生きる訳じゃない

誰かの愛に生まれ、そして、誰かの愛たちに支えられて

生きてゆくことの繰り返し

時の流れの中で…

 

この組曲は、定例のコンサートで涙ながらに一度だけ演奏したが

その後の私の歌づくりに大きな影響を与えた。

単なる「恋」の歌ばかりでなく、

「愛」や「人生」や「命」について歌うきっかけとなったのだ。

いわば、かっこつけなくなった、と言ってもいいと思う。

深く、広く、「歌う」から「伝える」へと、ひと皮剥けた気がする。

それはきっと、今の自分の音楽づくりにつながっていると確信できる。

 

「時は静かに流れ、今を明日に変えてゆく…」と

この歌では歌っている。

あれから30年も経った今

もう一度、この歌をじっくりと聴いてみたくなった。

 

その後、実の父とは三度会うことができた。

一度目は高知で三時間。

二度目は福岡の療養所で十五分。

三度目は既に柩の中だった。

 

父の絵はもはやその形見。

私の部屋で今も私を見ている。

 

…時は、すべてを流してゆく。

                                                                  (2014.12.11)

 


▼エッセイへのご感想をお書きください。

(注)文章の内容がこの欄にふさわしくない場合には、掲載しない場合があります。ご了承ください。

コメント: 9
  • #9

    フェアリー (木曜日, 18 12月 2014 06:19)

    「砂の器」私も見てみます。

    「許せる予感」がした気持ちに少しでも近づいてみたいです。

  • #8

    フェアリー (木曜日, 18 12月 2014 00:44)

    ♪誰かの愛に生まれ、誰かの愛に支えられ…心に残る詩ですね。

    私は6歳の時、父親を亡くしました。

    亡くしたのは6歳だけど病気だった父を、何とか治してほしいと、母が付き添い岡山医大、徳島医大と病院を転々としていたので、
    その間祖母に育てられました。

    記憶にあまりない父親の事が、好きだったのは
    きっと母の「お父さんはこんな人だった」
    「生きていたら、きっとこんな事もしてくれたよ。」
    と、父親像を語ってくれたからだろう。

    それでも、やっぱり夏祭り父親に肩車してもらって楽しそうに過ぎ行く友達を見ると
    「なんで死んでしもうたん?」
    と泣いた日を思い出した。

    お父さんからの絵が届いて「許せる予感」がした…は、ホッとする反面
    ホント?と、思ってしまった。

    幼少期いろいろな思いをし、お母さんの手を握りしめて生きてきたのに、
    ホント?って。

    …時はすべてを流してゆく。

    何だか切なく残りました。

  • #7

    月のうさぎ (水曜日, 17 12月 2014 23:55)

    刻々と流れてゆく時を形にして残していける才能が、羨ましいです。

    それぞれ分野は違っても“残してゆく"
    DNAがしっかりある。

    やっぱり親子ですね。

  • #6

    sakura (水曜日, 17 12月 2014 23:09)

    「時」改めて聞いてみたくなりました。

    昔、ぐうぴいぱあのラブソングが好きで、まだ経験が少ないからか別れの曲がカッコ良く聞こえて、よく聞いてましたね。

    だから「組曲 ・KAZUO」が出た時、まだちゃんと聴き込める私ではなかったと思います。
    率直な感想「長いなぁ」

    その時、その時を詩にして残して来られた
    しまむらかずお さん
    そんな生き方が出来て素敵ですね。

    私もそれなりに、時を重ねました。

    今なら、違った聴き方が出来るかも。

    時を超えて どんな事を感じるのかな?

    あの頃のしまむらさんに、今の自分が、出逢う。ちょっとタイムスリップみたいじゃないですか?



  • #5

    神野 (月曜日, 15 12月 2014 22:59)

    「砂の器」 観させていただきます。

  • #4

    土佐のおんちゃん (日曜日, 14 12月 2014 21:29)

    昨日は一足早いクリスマス・ライブ・・・

    ちょっとアナログ的なアコースティックなメロディーの大人の時間
    とても素敵な”時”を過ごさせていただきました
     ありがとうございました

    過ぎてしまった”時”は戻ることはないけれど、また再びそれ以上の素敵な”時”を私たちにプレゼントしてください。
    そして、またみんなで、その素敵な”時”を一緒に過ごせたら、とても幸せです。


  • #3

    pegasus (金曜日, 12 12月 2014 14:48)

    “愛に生まれ、愛たちに支えられ”、
    一刻も休むことなく刻み続けた時の記録の日記帳。

    怒っていても泣いていても、
    笑っていても眠っていても、
    時の流れに逆らうことなく、
    刻み続けた愛の記録、分厚くなった日記帳

  • #2

    みゅ (木曜日, 11 12月 2014 20:23)

    読むには読んでいたエッセイ。

    今回、なぜ感想を書き出くなったか……

    私も幼少の時、両親が離婚し
    20歳近くまで、母親を知らなかった私。

    愛情を、知らずに育ちました。

    そんな中、ある人に出会い
    愛情たるものを教わりました。

    そんな私も2児の母。

    母親らしいことが出来てるか、疑問にしながら
    とりあえず育児を頑張っております。

    愛情知らずも、子供は育つ。

    これからも、頑張ります。

    KAZUOさんも、頑張って下さい
    m(_ _)m

    陰ながら、応援しております。

    また、コメント出来るその時まで………

  • #1

    あっぷる (木曜日, 11 12月 2014 13:18)

    「 ♪時 」

    この歌もいいですよねぇ♪♪
    何かの機会に、ぜひぜひ、生歌で聴いてみたいです(^^)

    **

    KAZUOさんより軽い話だと思いますが…。
    実は、私も、実父を許せない時があり、一ヶ月の家出をしていました。
    多感な高校一年生の夏休み。

    そしてその冬、足を捻挫して、仕方なく父の車に乗りました。
    悪寒を覚えながら、助手席のドアにへばりついていました。

    でも、その接骨院帰りの夜道で、父がこう言いました。
    「懐中電灯で見えるのは、ずっと前方で、今、歩いている足のとこは暗くて見えんのに、前方を見たら安心して歩ける…、不思議なでねぇ。」

    どうしても父を許せなかった理由と無関係の一言だったのに、なんだか、父を許せる時が来るかもしれないと思った日のことを思い出しました。

    時の流れの中で、過去を客観的に見ることもできだすんですね。
    まだまだ、青さ幼さの残る私ですが(笑)

    **

    KAZUOさん、吐露のエッセイをありがとうございました(^^)

23-重い・軽い


第23話 「重い・軽い」   by しまむらかずお

 

 

このところ、私のエッセイのタイトルは

「友だち」とか「選ぶ」とか、「一週間」だとか、

すべて単語のタイトルになっている。

わざとそうした訳ではないが、

「何となく」そうなっている。

 

そんな単語ではなくて、作文の見出しのように

「○○に参加して」などの題名でも

「○○について考える」とか、「○○は○○になった」など、

その内容にふれるものでもいいのだが

なぜか「何となく」、単語でのタイトルになっている。

 

そこで今回は、対比して相反する単語にしてみた。

題して、「重い・軽い」…

少し、言葉遊びのような気もしないではないが

ま、つらつらと書いてみようと思う。

 

対比して相反する単語は多い。

「大・小」「長・短」「広い・狭い」「遠い・近い」など、距離やサイズの対比から

「賛成・反対」「好き・嫌い」といった考えや感情を表すもの。

また、「善い・悪い」「成功・失敗」など、何かの判断や評価を表すものもある。

 

加えて、諺(ことわざ)の類(たぐい)にも相反する言葉は多い。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」:「君子危うきに近寄らず」。

「善は急げ」:「急(せ)いては事を仕損じる」。

「武士は喰わねど高楊枝」:「腹が減っては戦はできぬ」。

「弘法は筆を選ばず」:「猿も木から落ちる」などなど。

まるで逆の意味となるものが多いのだ。

要は、昔から私たちは、自分に都合のいい諺を使って、

それを理由に、または言い訳にして、

進んだり止まったりしているだけかも知れない。

 

それはそうと、私のエッセイに対する読者?のコメントは面白い。

ものすごく素直に単純に、まるで「返信」のようなコメントから

その方の人生をも感じる深いコメントまで、様々だ。 

本当にカラフルで興味深いし、ありがたい。

 

それで気がついたのは、

それらのコメントの内容は、私の話の内容ときっちり連動するということ。

重たい話にはやや重く、軽い話にはそれなりに軽目のコメントが寄せられる。

コメントが届く「スピード」からもそれが分かる。

いわば読者が「執筆者」となって、

「さて、どうコメントすれば…」と思いを巡らせている感じが

こちらにも伝わって来る。

「つながっている感」がして、本当に嬉しくなる。

 

先日、その読者兼執筆者の方からこんな話を聞いた。

「軽~い話には、すっとコメントが書けるけんど」

「重た~い話には、どう返していいか悩んで、みょーに、よう書かん」

そう言って彼は笑った。

私は、「みょー」に申し訳なくなって、

「ほんなら、これからは、重いのと軽いのを交互に書くわ」と言ってしまった。

それゆえに今回は、この「重い・軽い」をテーマに書くことにしたのだった。

 

しかし、エッセイの場合の「重い・軽い」は、

どうなれば重くて、どこからが軽いということになるんだろう。

それは、「キロ・グラム」のように数値化できるものではないから、

受け取る側が感じるものなのだろう。

または、そのテーマに向かう私の姿勢の問題なのかも知れない。

 

本当のことを言えば

「なんで、エッセイなんぞ始めてしまったんだろう」

「これはこれで結構、大変なんだよなあ」と思うこともある。

けれど、この「つながっている感」が嬉しくて書いているみたいなものだ。

 

でも、こうして書き続けていった後、私はいったいどうするんだろう。

本にする気などさらさらないし、

それほど意味のある中身でもないと思うしね。

これまで、何の目的もないままに書き進めている。

…どないやねん。

 

しばらく時が経って、これを読み返す時、私はどう思うのだろう。

今のように、「何か書こうかな…」などと軽い気持ちで書いてていいのだろうか。

それなりに歳を食った私なので

それを読む人たちが、何か学べることがあったり、生きるヒントとなることを

頭に描きながら書いた方がいいのだろうか。

ちょっと迷ってしまう。

 

とはいえ、エッセイというのは

フランス語の「エセイユ(試みる)」の名詞形「エセー」に由来するものだそうで

かのモンテニューが、5世紀も前に出版した「随想録」がその起源とされていて、

「主観的で私的な事物の考察と、内面の探究心」を書く「試み」なのだそうだ。

 

それほど大層なものではないよね、私の場合。

「思いつくままに自由な形で書く散文」といったところ。

これは、日本では「随筆」という昔からの文章の形式で、

古くは清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」など、

そうそうたる方々の傑作が並ぶ。

 

なかでも、吉田兼好の「徒然草」の冒頭の

「つれづれなるままに、日ぐらし、硯(すずり)にむかひて」

「心移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば…」は、

このままで、「随筆の定義」そのものといわれているのだそうだ。

その点で「エッセイ」と「随筆」とは、ややニュアンスが違う気がする。

 

ま、そんな定義はともかく

自由に気ままに書くうちに、自分でも気がつかなかった思いに辿り着き、

自らの経験を再度、検証できたり、自らを慰めたり励ましたりと、

結構、意外な効能があるように思う。

 

そのうちの一番大きな効能は「自己肯定」、

「自らをよしとする」ことではないかと思う。

もともと「自由」とは、この「自らを由とする」という意味なのだ。

言わば自分を解放し、自分のおもむくままにやってみること、そして、

「これでいいんだ」「これが自分だ」と、自分で自分を認めることができる自由。

それを手に入れることだと思う。

 

「自分なんて…」とか、「なんで私はこうなんだ…」などと、

「自己否定」に陥ることは多い。

そんな方は、この「思いつくままに自由な形での散文」を一度書いてみるといい。

きっと、「まだまだ捨てたものじゃない」とか、「他の方法を考えてみようっ」などと

「次の一手」や、「明日の自分」が見つかるかも知れないから。

 

そんなこんなで今日も私はエッセイを書いている。

書き始めたきっかけは、ホームページを開いたからで、

書き続ける理由は、みんなとつながる気がするからで、

書いてみれば、それなりに「私」が分かることもあり、

書いたものから、何かを感じてくれる人もいて

書けば、誰かが喜んでくれているらしい。

…ま、このまま行けるところまで行こうと思う次第。

 

さてさて、読者および執筆者の皆様。

この「つれづれなるままに」「そこはかとなく」綴った今回のエッセイは

重い?軽い?さあ!どっち?

           (2014.11.27

 

 


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コメント: 5
  • #5

    pegasus (金曜日, 28 11月 2014 21:58)

    この「軽くて深い」
    なお言えば、場面展開が早くリズミカルに流れるエッセイを
    読みきった読者「はなちゃん」
    それを、たった一行で完璧に返した執筆者「はなちゃん」
    内容について行けない時は
    「共感と感動」という手もある・・・・・。


  • #4

    レッド (金曜日, 28 11月 2014 16:06)

    「徒然なるままに…」

    某市長が、広報誌の表紙に書いていたのを未だに覚えています。

    私が独身の頃だから、えっと、何年前かなぁ(笑)

    ☆☆☆☆☆☆

    車の運転の時には歩行者がマギル。
    歩行者の時には、車がマギル。

    これを、

    車の運転の時には、歩行者の気持ちで。
    歩行者の時には、運転手の気持ちで。

    そしたら、町が良くなっていくだろう。
    いやいや、まず、私から実行していこう。

    ☆☆☆☆☆☆

    …と、いうような文章を、未だに鮮明に覚えています。

    長々と、他の方の文章をつらねてごめんなさい(^_^;)

    KAZUOさんのエッセイも、読んだ時はもちろん、軽いように見えた内容が、重くというか、大事に心に残っていて、何かの折りに、その言葉に救われたり、ホッとしたりがあるんじゃないかなぁと思って、長い引用をさせてもらいました(*^^*)

    「人生は出会いのつくる物語」
    「代わってはやれないけど、そばにいるから」

    エッセイの中から、またまた、KAZUOさんの名言も生まれてくるかなぁ、なんて、軽いプレッシャーで、ペンを…、もとい、入力を終えますね(*^^*)

  • #3

    あっぷる (金曜日, 28 11月 2014 13:03)

    KAZUOさんの今回のエッセイ、軽いタッチで進んでいるなと読み進めて、ラストの「重い?軽い?さあ!どっち?」で、コメント入力が重くなりました…、なぁんてね(笑)

    KAZUOさんの頭の引き出しから、博学や雑学がどんどん出てくるのを楽しみにしています♪♪

    KAZUOさんの心の引き出しから、重い思いや軽い想いがいっぱい出てくるのを楽しみにしています♪♪

    エッセイ書くのが、重い負担だけでなく、書いて楽しく軽くなる時もありますように(*^^*)

  • #2

    はなちゃん (金曜日, 28 11月 2014 08:52)

    軽いですが、深いですね。

  • #1

    フェアリー (金曜日, 28 11月 2014 01:02)

    今回は、次が載るの早かったですね。

    私がエッセイを楽しみにしている訳は

    素顔のしまむらかずおさんが垣間見れるから。

    へぇ〜そんな考え方も出来るんだと新たな発見が毎回あるから。

    そしてホント博学で尊敬しています。

    また、お返事が頂けないという事は ある意味好きに書いていいって事かな?
    と勝手に解釈して
    (あ!ホントにダメな内容だったら載せてもらえないんでしたよね(>_<))

    自分を由として書かせて
    頂いています。

    学生の頃、読書感想文が大嫌いだったのに 不思議。。。

    そんなエッセイも23話ですね。

    しまむらさんは、このまま続けても本にするわけでも無く、
    そんなに意味のある中身でもない と書かれていますが

    毎回想像も付かない内容がアップされるから「今回はそう来たか〜」とわくわくして待ってるし、

    つながらせてもらって、その時々コメントした内容が残るというのは、
    私の様な一般ピープルにとっては本当に稀な事で、

    エッセイを読み返しながら、ちょっと前の自分に会うという貴重な体験をさせてもらっています。

    あれ?今回は「軽い」なぁと思っていたのに、「重く」しちゃってます??

    ともあれ、楽しみにしていますから
    まだ しばらくは
    “つながらせて" いて下さいね (^_^)




22-一週間



第22話 「一週間」       by しまむらかずお

 


前回のエッセイから一週間。

そろそろ何か書かないと、とパソコンに向かった。

 

それにしてもこの一週間は忙しかった。

毎日が何かの前日、または当日。

コンサートもあったし、研修会もDVDの編集作業も、呑み会もあった。

どんどんと毎日が「過去」になる。

 

私の生活の区切りはやはり一週間。

その単位で回っている。

勤務先を持たない今でもそのサイクルは変わらない。

 

私より先に退職した先輩がこんなことを言った。

「毎日が休みだと、徐々に曜日が分からなくなるんだ」

サンデー毎日になる。」…そう言って笑った。

私も苦笑しながら、「そんなもんかなあ」などと思った。

 

そこで、私も同じ身分になる前に夜間大学の聴講生に申し込んで

哲学と心理学を改めて学ぶことにした。

若き頃通った懐かしい教室で聴く講義は新鮮だったし、

一定の人生を生きてから聴くこれらの科目は

先人の言葉を、単に記憶するのではなく、

自分の人生と対比しながら聴くことができて本当に面白かった。

 

とは言え、本来の目的は

一週間のうち2日、曜日のリズムを作ることが目的だったけれど。

 

ところで、一週間というのは

日曜が始まり? それとも月曜?

あなたのカレンダーはどっち?

私は月曜始まりの手帳を使っていた。

土日を「週末」とするカレンダーである。

というのは、青少年育成や社会教育の仕事は

土日に合宿や集いが多く

その後の高知国体関連のイベントも

もっぱらその「週末」に集中していたからだ。

 

合わせて、もう20年も前から続けている「やさしくなろうコンサート」は

そのほとんどが、土日、祭日。

ま、仕事休みの日にしか行けませんからねえ。

遠方でのコンサートを済ませて、日曜の深夜に帰って来て

月曜には這うようにして出勤するのが常だった。

 

だからやっぱり、月曜が始まりで、土日が週末。

…それが私の感覚だった。

でも今や、毎日が土日な感じ。

ありがたいやら、忙しいやら…。

 

週の始まりというのは、実は国によって違っていて

アメリカは日曜から、フランスは月曜から。

イスラムの国々では、金曜がお休みでカレンダーは土曜始まり。

国際規格ISOでは、月曜日が週の始まりとされているのだそうだ。

 

でも、どうして一週間は7日なんだろう。

365日を7日で割ると、52週で1日余る。

一週5日にすれば割り切れて

3日働くとすぐ土日…こりゃいいよねえ。

 

ソビエト連邦、今のロシアでは一時期、週を5日にした時期があったという。

なぜか不評で6日にしたが、またもや不評で、

10年ほどで7日に戻したらしい。

1週7日というのは、人間の生活リズムにあっているのだろうか。

 

日本に「曜日」というものが導入されたのは平安時代。

当時の唐からの密教と共に伝来したのだそうだ。

しかしながら江戸時代の庶民には、月始めと月締めがあるだけで

「曜日」はなかったとのこと。

庶民には休日もなかったということなのだろうか。

 

現在の「七曜制」は明治に入って、

西洋のグレゴリー暦が採用されたときに始まっている。

けれど、その同じ七曜でも

太平洋戦争の真っ最中には

「♪月月火水木金金~」と歌でも歌われたほどに

ゆとりのない生活が強いられた。

 

時が過ぎ、高度経済成長下の時代には

色っぽい和服美人の歌手、五月みどりは、

「♪一週間に十日来い~」と愛しい心をお茶目に歌ってヒットさせた。

 

ロシア民謡の「一週間」では、

日曜日に市場へ出かけ、糸と麻を買ってきた…

月曜日にお風呂をたいて、火曜日にお風呂に入り…

水曜日に友だちが来て、木曜日に送っていった…

金曜日は糸巻きもせず、土曜日はおしゃべりばかり…

友だちよこれが私の、一週間の仕事です。(訳詞:楽団カチューシャ)

…その一行のあとには「♪テュリャ テュリャ テュリャ テュリャ テュリャリャ…」と

なかなか呑気なものである。

 

この歌を知ったとき

週に一回しか風呂に入らんのかい! とか

結局、友だちは泊まっていったんかい!とか

こんなんで、「仕事」と言えるんかい!

と思わずツッコミを入れたことだった。

 

その七つの曜日は、いろんな言われ方で呼ばれて来た。

世界恐慌の引き金を引いた1929年の

「ブラック・サースデー(暗黒の木曜日)」とか、

史上最大の株価の暴落を招いた1987年の

「ブラック・マンデー(暗黒の月曜日)とか、

身近なところでは、休みの翌日に仕事場に行きたくなくなる、

「ブルー・マンデー」などなど、大から小まで揃っている。

 

ちなみに、「ぐうぴいぱあ」当時の私の歌には

「雨のフライデー」という恋愛初期の可愛い歌があり、

「グッバイ・サースデー」というすっぱい失恋の歌もある。

…これは、解散コンサートのアンコール曲だった。

ま、関係ないけど、せっかく思い出したので一応書いとこ。

 

それにしても、今週、来週、再来週…と

7日区切りで生きているうちに、

いつの間にか今年も12月が目の前だ。

7日区切りは、思いのほか早い。

そろそろクリスマスだの忘年会だのと

そんな話が話題に上るころになった。

 

かく言う私も、クリスマス・ライブの準備に取りかかっている。

そうだ、そろそろ来年のカレンダーを買わなくちゃ。

やっぱり、「月曜始まり」のにしようっと。

 

  (2014.11.25)

 


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コメント: 4
  • #4

    sakura (木曜日, 27 11月 2014 00:27)

    そろそろ何か書かないと
    と始まったエッセイが、
    こんなに深い知識を教えてくれるなんて!

    だから、やっぱりエッセイを
    待ちわびてしまう (^_^)

    国によって始まる曜日が違う?
    日本の曜日導入は平安時代?

    考えた事もなかったけれど、いざ教えてもらうと
    誰かに言いたくなりますね。

    「ねぇねぇ知っちょったぁ?」って。

    今年の忘年会ネタに持って行こうっと。

    ちなみに私もつい先日
    月曜始まりの手帳を買いました(^_^)v

  • #3

    土佐のおんちゃん (火曜日, 25 11月 2014 17:26)

     
     う~ん! 深いぃ~!

     へぇ~!へぇ~!へぇ~!へぇ~!へぇ~!へぇ~!98へぇ~

     島村さんに金の脳みそプレゼント

  • #2

    フェアリー (火曜日, 25 11月 2014 07:00)

    今日は三連休明けなので、正に気分はブラックマンデーならぬ、“ブラックチューズデー"ですが、
    ロシア民謡の「一週間」に同じツッコミを入れてたなぁ(^_^)と、苦笑しつつ仕事に行って来ます。
    明るい気分にしてくれてありがとうございます*\(^o^)/*

  • #1

    あっぷる (火曜日, 25 11月 2014 06:19)

    「一週間」、これだけで、こんなに話題を持つKAZUOさん、やっぱり博識ですね〜(^^)

    「一週間」の歌に出会った時、「お風呂のお湯が冷めるやん」と、つっこんだのを思い出しました(笑)

    カレンダーに、日曜始まりと土曜始まり以外のがあるんですね…、へぇー⁉︎

    江戸時代は、土日がなかった…、なるほど、そっかぁ!

    なぁんて刺激を受けながら読み進みました。

    たくさんの話題をありがとうございました(^^)

    **

    ところで、私も、土日がまとまる月曜始まりが好き。

    家族三人は、日曜始まりが好き。

    で、リビングのカレンダーは日曜始まり、マイダイアリーは月曜始まり。

    なかなか頭を使うことになる(笑)

    なのに、その頭の体操が、なかなか会話に活かされない(笑)

    だから、KAZUOさんエッセイでおベンキョーさせてもらうので、今後とも楽しみにしていますね(^^)

21-選ぶ


第21話 「選ぶ」   by しまむらかずお

 


昨日、高知県高校演劇コンクールが終わった。

2週にわたり、県下16校の演劇部が参加して

一生懸命の舞台を競った。

 

私は初めてその審査員として参加した。

「つくる」側から「観る」側に、そして、「選ぶ」側になった。

たった3人の部員で作り上げた作品から

大勢の部員の拍手を受けながらの上演まで

本当にカラフルな16校の上演だった。

一夜明けた今でも、種々の舞台の1シーンが頭をよぎる。

 

それほどに熱心に目と耳と自分の全部を凝らして「観た」。

生徒たちの伝えたいものをしっかりと受け止めたくて「観た」。

客席の中央に位置して、小さなライトで台本を照らしながら

大学ノートにペンを走らせる。

そんな経験はもちろん初めてだった。

 

あらかじめ台本は渡されていた。 

バッグに収まらないほどに分厚い台本の束。

約2週間持ち回り、深夜のバーガーショップでもページを開いた。

台本を読み込み、着眼点を書きとめつつ、

気になるところや、その表現を期待する部分にチェックを入れた。

 

1校の上演時間は50分から60分。

台本の読み込みとその整理には、その倍ほどの時間が必要だった。

台本の厚みは様々。これを時間内でできるのかと心配したり

ページ数の少ない作品には逆に、どうやって50分持たせるのだろうなどと

首をひねったりした。

ドタバタあり、文芸作品的なもの、なんとも不思議な物語など

それぞれその空気感を感じつつ、まだ見ぬ生徒たちの演技を夢想した。

 

それにしても、この役は重たい。

なぜ私なのだろう、と何べんも思った。

確かに、100人の市民劇団をつくり、

1年かけて仕上げた「ミュージカルRYOMA」から演劇の世界に入り、

その後、新たな劇団を立ち上げて、10本もの公演を打った、

今年の3月には、子どもミュージカルも創作した。

とはいえ、本来は音楽活動家。

どのお芝居も常に自作の音楽を伴うことが多い。

舞台文化の範疇にいるとはいえ、ストレートな芝居を、

しかも審査する側になることには、大きな戸惑いがあった。

 

この依頼があったとき、

「他にもたくさん、演劇の先生がいるじゃないですか」と

お断りしたが、その返事はあっさりしたものだった。

「いや、その先生たちはみんな演劇部の顧問なんですよ」

「自校の演劇部が出ているのに審査員にはなれんでしょう。」

…そうか、なるほど、と妙に納得したが

さらに食い下がって、「じゃあ、県外からお呼びしたら?」と提案

またもやあっさりと、「はい、それも検討しています。」

「じゃあ、それでいいじゃないですか」と私。

彼は続けてこう言った。

「これまでずっと審査員は県外の劇団その他から呼んでました。」

「今回初めて、県内の先生にと言うことで」

「コンクール終了後も、相談できる人をと…」

そうか、そうだね。とは思ったものの

それでもそれでも「なぜ私?」との思いは消えなかった。

 

もたつく私に、彼は最後の切り札を出してきた。

「私は、あのミュージカルRYOMAのときの歌、全部歌えます。」

えっ? と声が出た。

もう25年も前に劇団座長を務めつつ、22曲もの楽曲を手掛けたあの作品である。

聞けば、彼は中学生の頃にそれを観て、当時のカセットテープを買いこんで

ずっと聞いていたという。

目の前にいる彼に急に親密感が湧いた。

 

そのミュージカルを観たのをきっかけに

大学生の折りに、自ら高知の市民ミュージカルに出演。

しかも主役。その作品は私も観た。

本来なら医者の道に進むはずの彼だったが

その後、高校教師の道に進んだのだそうだ。

もちろん演劇がやりたくて。

 

そんな彼からの依頼を

私は断れなくなってしまった。

 

昨日、16校の上演を終えたあと

90分ほどの「講評」の時間。

聞けばこれまでの講評は

審査員がマイクを握り、まるで講演のごとくにお話するのが常だったとのこと。

私は高校生たちに、他校のお芝居への講評にも関心を持たせたいとの思いから

各校の舞台写真をホリゾントに映し出しながら、細かく講評することにした。

もう一人の県外からの女性審査員とともに

舞台に二つの机を置いて、アフター・トークの形を取ってみた。

二人の掛け合いで話を進め

時には立ちあがって実際に演じて見せたり

こちらから直接、部員に質問を投げかけたりしながら

高校生の関心を引っ張りつつ、ていねいにお話しさせていただいた。

 

私としては精一杯である。

高校生の心に届いただろうか。

もちろん指摘もするが、認めること、褒めることもしっかりと…

私としては精一杯である。

 

そのあと、閉会式で審査発表。

上位2校には12月に香川で開かれる四国大会への出場権が与えられる。

場内は静かである。各賞の発表の度に拍手が起こる程度。

最後に代表校2校の発表…初めて歓声が上がった。

 

順位発表の直後に演台に立った。

食い入るように私を見つめる生徒たちに、こう切り出した。

…数あるクラブ活動の中で、ようこそ演劇部を選んでくれました。

この中にはひょっとしたら、廃部の危機の中で歯を食いしばって頑張って

この大会に参加した人もいるかもしれません…

泣きそうになった。

 

その後がさらに辛かった。

順位付けの理由を短い言葉で言わねばならない。

「選んだ理由」は言えたが

「選ばなかった理由」は言えなかった。

「頑張ったみんなに大きな拍手を…」

それが精一杯だった。

 

閉会後、広くはない玄関ロビーで、自然に円陣となり

私たちはその生徒たちに取り囲まれた。

選ばれた生徒の顔はキラキラしている。

代表校を逃した学校にも囲まれた。

その生徒たちは泣いている。

「選ぶ」というのは罪である。

 

どの子も真剣に私たちの言葉を目で聞いている。

「ここは良かったよ」「でも、ここはもう少し工夫があれば良かったんだけどね」

選ばれなかったあの子たちには、そんな言葉は届かないのかも知れない。

その子たちの表情を、私はしばらくは忘れられない気がする。

「選ばない」のも罪である。

 

自分で選んだでおいて、「おめでとう」とは言えない。

自分が選ばなかったのに、「惜しかったね」などと言えはしない。

タイムや得点のないものを、

本当は「勝ち負け」ではないものを、

「選べ」というのは酷である。

 

「選ばなかった」あの子たちに、

私は何ができるのだろう。

 

私はその夜

なかなか眠れなかった。

「選ぶ」ことへの罰かもしれない。

2014.11.17

 

 

 


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コメント: 5
  • #5

    北川実香 (木曜日, 20 11月 2014 19:46)

    審査員お疲れ様でした。私も、かつて、高校演劇で舞台に立ちました。その時の審査員の言葉ははっきり覚えてます。一生の宝です、熱演賞でしたけど、審査員の方に、思ってもらえるなんて、演じた人達は幸せですね、

  • #4

    pegasus (火曜日, 18 11月 2014 07:02)

    選び選ばれて、この世に生まれ、
    選び選ばれて、社会に生きて、
    選び選ばれて、家庭に生きて、
    選び選ばれて、人と生きる。

    そして選び選ばれて・・・・
    審査員をつとめる。

    小さな出逢いにはじまり、
    万物に「選び選ばれて」人生が出来上がる。

    材質を選び、色を選び、
    自分という大きなキャンパスに向かって、
    何度も何度も選び続けて塗り替え塗り替えしながら、
    筆を休めることなく人生を限りなく描き続ける。
    誰かが「人生は作品である」と言った。

    選ばずに与えられる・・・・
    それは、きっと、大自然の摂理に従う時、
    大自然と運命を共にする時・・・・・。

    これから自分の意志で描き始める,
    一人ひとりの真新しい人生のキャンパスに、
    人生の先輩として
    「選ぶに足りる」新しい色を加えられたことでしょう。

    お疲れ様でした。

  • #3

    月夜のピアノ (火曜日, 18 11月 2014)

    お世話様です。初めて投稿します。(^^)

    表現者は、「人に何か伝えたい」と考えて創っている以上、第三者に評価してもらうことは必要ですよね。「伝えたい人に対して、その表現している芸術そのものに対して、独りよがりになっていないか」を知るための審査なんだと思います。そういうことを乗り越えてでないと、表現って高まらないと思います。自分が作って楽しくて、人にも楽しんでもらえる作品って、難しいですよね。
    とはいえ、審査に真摯にむきあえばこそ、お辛い仕事でしたね。どんな結果であっても、それがそれぞれの子どもたちを成長させることを信じましょう。お疲れ様でした。

  • #2

    フェアリー (月曜日, 17 11月 2014 22:19)

    辛いお役目、お疲れ様でした。

    これまであらゆる人の成長を願い
    その為に何が出来るかを
    一生懸命考え、何度も練り直し

    自分の時間を削り、最良の手段を
    生み出してきた しまむらさんに
    審判を下す役割りなんて
    本当に辛い事だったと、思います。

    でも、切磋琢磨して成長していく
    若者にとって、審判されるという事は
    冷静にこれまでを見返し

    さらなる飛躍の為に
    現状をしっかり見つめる場を
    与えてもらった。

    そう考えて下さい。

    だから
    「コンクールが終わった後も相談出来る人を・・・」と。

    これまで多くの人を励まし
    成長する手段を与え
    見守ってきた しまむらさん

    あなたしか答えられる人は
    いなかったでしょう。

    あなたの辛い思いは
    これから彼らに何をしてあげられるかで
    いくらでも
    この機会を生かしていく出来ますよ。
    いえ これからしてあげないと。

    ミュージカル龍馬で人生を決めた
    あの時の若者の期待に答え

    その後輩たるべき
    今回の演劇部員に
    光を当ててあげて下さい。

    これからが本当の
    しまむらかずおさんの
    出番です。

  • #1

    あっぷる (月曜日, 17 11月 2014 20:45)

    「私は、あのミュージカルRYOMAのときの歌、全部歌えます。」

    うわっ、この言葉、私も、心を動かされました(*^^*)

    **

    「ここは良かったよ」「でも、ここはもう少し工夫があれば良かったんだけどね」

    潜在意識もしっかり聞いていて、高校生の心の中に残ると信じたいです(*^^*)

    **

    印象に残ったとこを、選んでみました…なぁんてね。

    とても選ぶような立場でない私の心に残った部分です。

    二週間の集中、当日の工夫を凝らした講評、お疲れ様。

    KAZUOさん、今夜は、ぐっすり眠れますように…☆彡