エッセイ・コーナー  KAZUOは要りませんか?

しまむらかずおが描くつれづれ(その10)  第46話~第50話

46-50話
50-50


第50話 「50」  by しまむらかずお

 

このエッセイ、「KAZUOは要りませんか?」が

ついに50話に到達した。

かんぱーい!! おめでとう、よくやった!! 

自分に拍手 パチパチパチ… (淋)

 

思えば長~い道のりでした。(涙)

雨の日も風の日も、疲れた日も眠い日も

ときには酔っぱらった日にも

ただひたすら、この覧の読者のために

このエッセイを待ち焦がれるファンたちのために…(号泣落涙)

 

…ま、それほど大げさなものでもないよね。

とはいえ、このエッセイの書き始めは2014年の8月。

あれからなんと、10カ月と10日…

丁度予定日、まもなく出産かあ。(笑)

 

計算すると、平均 6.2日で1話を書いている。

大したもんだとも思い、結構ヒマ? とも思う。

記念すべき第1話のタイトルは、「迷ったら…」だった。

以来、迷いっぱなしさ。(自嘲)

 

そんなタイトルの変遷には、それなりに特徴的な流れがある。

第13話「旅」から38話の「木蓮」までは、単語や名詞のタイトルが続き、

第41話の「夢」から前作の「箱」に至るまで、漢字一文字のタイトルが続いている。

しかしながら、この分析は実は何の意味も持たない。

単なる気まぐれでしかないのだ。(鼻笑)

 

けれど一応、真面目に今後のことを考えてみよう。

なぜ、エッセイを書き続けるのか。

そのことに何か意味があるのか。

自分自身にとって、この「書く」という作業は何をもたらすのか。

さらには、社会的に見てこのエッセイというものが果たす役割は…

…これ、シンドそうなのでやめよっと。

 

それにしてもこの50作というのは、やはり節目である。

50という数字は何となく、丁度真ん中、道なかば。

そんな感じがするのはなぜだろう。

フィフティ・フィフティという言葉があるように

100の半分だからだろうか。

偏差値の50は平均値。

意味は違うが、五十歩・百歩、明日の百より今日の五十、という言葉もある。

数学的にいうと、平方数の和で2通りに表せる最小の数。

50 = 52 + 52= 72 + 12 …意味分かんねえ。(苦笑)

日本語の音の数は50音。

アメリカの州は50州…関係ないか。

原付バイクは50cc …だんだん苦しくなってきた。

と、とにかく、50というのは、やっぱり意味のある数字ってことだ。

 

ふっと思うが、第100話までいくのだろうか。

そのころ私は何をしているのだろうか。

これをお読みのあなたは、何をしているのでしょうか。

未だ来ないから「未来」と書くのだが

未来は思い出の中には存在しない。

想像、空想、妄想、夢想の中にそれはある。

思ったとおりの未来は来ないが、思わない夢は叶うこともない。(マジ)

 

事件のないところに記事はない…

知り合いの新聞記者がそう言った。

言いかえれば、活動のないところにエッセイもない、ということになる。

ずっと何らかの活動を続けていれば、おのずと書くことも

書きたいこと、伝えたいことも、絶えることはないと思う。

私は動き続けていたいと思う。

 

そうやって生きてみて

100話に達したら、再度の節目。

この中から抜粋して、一冊にまとめてみるか。

ま、買い込んで読む人がそうそういる訳もないだろうけれど。

ま、自分への励みにはなるだろうさ。(フンだ)

 

しかし、これも音楽活動と同じで

聞いてくれる人がいないとコンサートはできないし

それがなければ、歌を作る気力も湧かない。

どーぞ、見捨てないで、読んでくだせえ。(懇願)

どーぞ、お仲間でいてくだせえ。(ひれ伏し)

で、たまに褒めてくれたりしたら、

またまたその気になって、書くことでしょう。(単純)

 

ではでは、いつ訪れるか分からない第100話。

それまでの気長なお付き合いをお願いして

記念すべき今回のワタクシのお礼の言葉といたします。

皆様、本当にありがとうございました。(深礼)

(…大拍手・喝采・退場・幕・解散・立席…ガラーン)

       (2015.6.15

 


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(注)文章の内容がこの欄にふさわしくない場合には、掲載しない場合があります。ご了承ください。

コメント: 5
  • #5

    土佐のおんちゃん (水曜日, 17 6月 2015 12:02)

     道半ばお疲れ様でございます、いつもながらに、島村さんのエッセイに感心させられ励まされ元気づけられています。

    ますます張り切って100話と言わず1000話2000話筆の走る限りまでがんばってください。

  • #4

    レインボー (月曜日, 15 6月 2015 21:13)

    アンコール!
    アンコール!
    アンコール!
    アンコール!
    アンコール!

    50回書こうと思いましたが、やめました(笑)
    KAZUOさん、(カッコ書き)の中も楽しかったです♪
    100回目までのエッセイも楽しみにしています(*^^*)

  • #3

    少女A (月曜日, 15 6月 2015 17:59)

    「第100話」目を待っています(^_^)

  • #2

    ぴあの (月曜日, 15 6月 2015 17:44)

    50話到達、おめでとうございます!
    雨の日も、風の日も、疲れた日にも、眠い日にも、酔っぱらった日にも。
    よくがんばりました!
    かんぱ~い!  パチパチパチ!

    ためになるお話、楽しいお話、考えさせられるお話。
    とってもとっても楽しみにしてます。
    これからも、待ち焦がれているファンのために、書き続けてください。

  • #1

    フェアリー (月曜日, 15 6月 2015 16:33)

    すごい‼︎ついに50話
    おめでとうございます*\(^o^)/*

    2014年8月から続いてたんですね。
    思えば、出る度、普段知らない
    しまむらさんの様子にワクワクしたり、
    昔のテレビや映画の事を教えてもらったり、
    大切な事を忘れていないか考える時間をもらったり、
    一回一回 自分の生活からちょっと旅な出た様な気分で読ませてもらってました。

    これからの50話も期待してます
    (^_−)−☆

49-箱


第49話 「箱」      by しまむらかずお

 

先週、箱を作った。

およそ横幅2m、奥行き1m、深さ1mほどの大きな箱。

DIYの店を何軒も回って材料を整え

3日かがりでこしらえた。

 

この4月から地元の自治会長に就任。

この町では1年ごとの当番制で役員が回ってくる。

5年ぶり3回目の会長職である。

その初仕事が、ごみステーション用の、要はゴミ箱づくり。

6班ある班のひとつに、壊れかけのゴミ箱があり。

毎回の収集日には、箱の高さの2倍ほどにビニール袋が積み上げられ

ゴミ箱の横に、はみ出て置かれる状況。

箱には一応、防鳥ネットがあるが、用をなさない。

 

5月。新役員の班長さんらと共に、「わがまちウオッチング」と称して

60世帯ほどの町内をくまなく見て回り、

危険な個所や、外灯や水路の様子などをチェックした。

その際に、そのゴミ箱のことも話題にのぼり

「もっと大きな箱がいるよね」という話になった。

 

世の中便利になったもので

「ごみステーション」と検索すると

その既製品がヒットする。

頑丈なつくりでかっこいいが

12万から20万もする。

そんなカネはない。

 

しょーがないなあと

いつもの出しゃばり心が湧いて出て

早速に知り合いの工務店に連絡。

「外壁材の余りはない?」と尋ねた。

「あるよ」との答えで、製作する羽目になった。

 

外壁材は、石膏で出来ていて、赤レンガ模様の重いヤツ。

それが届いたとき、「こりゃあ、大変なことになったゾ」と思ったが

もう引き返せない。

やや簡単に考えていたが、

がっしりした材で、きっちりと作らないと持たない。

あーあ、と思いつつ、買出しに向かうワタシ。

 

ところがなかなか適当な材に出会えない。

というのも、一般に木材とか、その他の製品は

一軒、半軒=180cm、90cmで出来ているから

この2m超えの箱は、すべてさらに長い材から切り出すしかない。

DIYの店の駐車場で何度も設計図を書き直したりした。

でも、それが実は面白い。

 

いつも作っている舞台セットはもっと大きいものだけれど

「前からの見栄えだけ良ければいい」もので、しかも、「すぐに壊せる」ものだ。

今回はそのマ逆。

オージョーしまっせ。

 

組み立て作業はしんどいけれど楽しい。

あっと言う間に時間が過ぎる。

気がついたら西日が差している。

夜になると、腰痛に気づく。

そんな感じ。

 

で、ついに完成。

班の方にも来ていただいて、せっせと運んで定位置に設置。

我ながら良くできたシロモノ。

がっちりしていて、小さな子どもだと10人は楽に入れる。

ま、子どもを入れる訳はないけどね。

近所の奥様が来て、「まあ、ここで住めそう」と笑った。

 

次の収集日。

すべてのビニール袋が、見事に収まったという。

地元の班長さんがやって来て

「ぜんぜんゆとりですよ」と嬉しそうに話してくれた。

良かった良かった。

 

そんなとき、いつも思うことがある。

本当は「僕がやったがぜえ」と自慢したいし、

「すごいねえ」と褒められたい。

まるで子どもだけれど、その通り。

少年のころからそれは変わっていない。

でも、それなりに大人になったから言わないでいるだけ。

本当はみんなに言いふらしたい。

この子どもっぽさは、僕だけだろうか。

 

歌を作っても、本を出しても、絵を書いても、

芝居の台本を仕上げたときも、ライブをやるときも、何をしても、

この、「褒められたい意識は」消えてない。

今さら「褒めて育てて」なんて言わないし、

今さらそうそう育たない。

褒められたいからやる訳じゃないけれど

認められたいのは誰しも同じだろうと思う。

はて、私は人をちゃんと褒めているだろうか。

自分は褒められたいクセに、人を褒めてないなと今気づく。

反省、反省。

 

ところで、箱を作っていて、思ったことがある。

屋根をかぶせれば、ここで寝れるなあと。

その中に横たわる自分を想像して、慌てて打ち消した。

それって、お棺じゃん。

…一人で笑った。

 

人生の最後に入る筈のお棺はともかく、

人間って、箱が好きなのかもしれない。

何かのプレゼントのときは、化粧箱に入れる。

大事なものは箱にしまう。

宝石箱、文箱、玉手箱。

昔から箱にまつわる言葉は多い。

箱入り娘…最近トンとお目にかからない。

箱が小さいのか、弱いのか、箱出た娘が多い気がする。

ここでいう箱とは「家」のこと。

家もやっぱり巣箱かも。

 

身近かな生活用品の中にも箱はたくさんある。

弁当箱、貯金箱、救急箱…。

それぞれに物語の道具となっている。

そういえば

ピアノを贈る運動でお世話になった募金箱や

世の中を変えうる投票箱というのもあるよね。

 

今度の日曜日は、町内一斉清掃。

朝早くから団地の人たちと一緒に

夏草の刈り取り、水路の掃除。

そんな共同作業の中から生れる「わがまち意識」。

誰も褒められたくてやる筈もない。

でも、精一杯声をかけながらやってみようと思う。

 

何とか天気が持ってくれればいいけれど。

てるてる坊主でもぶら下げようか。

2015.6.13

 




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コメント: 10
  • #10

    レッド (木曜日, 16 7月 2015 23:11)

    ふっと思い出しました。
    私が小さい頃、母がリンゴ箱に布を貼ってオモチャ箱にしてくれたこと。
    そのリンゴ箱に入るのも大好きだったこと(笑)

    ふっと思い出しました。
    KAZUOさんの小さい頃の写真も見たような記憶。
    KAZUOさんも、大事に育てられたんだなぁって。

    なんとなく頭にに浮かんだので、投稿させてもらいますね(^_−)−☆

  • #9

    あっぷる (月曜日, 06 7月 2015 16:01)

    KAZUOさん、こんにちは(^^)

    久しぶりの断捨離中(笑)
    この2m×1m×1mの箱へ、手放す物を入れたら、ずいぶんスッキリするだろうなぁと思いながら、ふとエッセイを見返しました♪♪

    本物の大きさを見てみたいものです(笑)
    なんて、セルフハンディキャッピングに逃げずに断捨離に戻ります♪♪

    ではでは、またまた〜(^^)

  • #8

    土佐のおんちゃん (水曜日, 17 6月 2015 12:06)

     すべてにおいて、いつも全力投球の島村さんには感服致します
    その姿勢が友を呼び仲間を作るのでしょう。

    しかし、それにしても玄人肌でよく出来てますねぇ(拍手)

  • #7

    カノン-2 (火曜日, 16 6月 2015 23:44)

    いけない(>_<)
    文章の中に絵文字を入れると、その後の文章が切れてしまうのを忘れてました!
    改めて カノンです。

    すご〜い
    こんな素敵なゴミステーション見た事ないです。『わが街自慢』になりそうですねo(^▽^)o

  • #6

    少女A (月曜日, 15 6月 2015 17:50)

    すごい!! すてき(^_^)

    はいってみたい~
    「ゴミ箱」にするのもったいないような気がする…

  • #5

    ぴあの (月曜日, 15 6月 2015 10:14)

    すごい!!!
    ほんとにこれ、“ゴミ”箱ですか?
    素敵なので、みんなに大事にされそうですね。
    “ゴミを捨てる“場所がきれいな街は、いい街ですね。

  • #4

    レインボー ② (日曜日, 14 6月 2015 23:11)

    うわぁー、嬉しいっ!
    箱の写真が追加されてる!

    うーん、こんな素敵な箱、中に入りたいのもわかる気がします(笑)

  • #3

    カノン (日曜日, 14 6月 2015 22:59)

    すご〜い

  • #2

    フェアリー (日曜日, 14 6月 2015 21:52)

    お庭造りから
    久しぶりのDIYで、すごい物を作りましたね!
    石膏、赤レンガ模様の"ゴミ箱”
    見に行ってみたいです (*^^*)

    そんな素敵なゴミステーションになったのも、これまでのしまむらさんの人間関係のなせるワザ。

    声掛けあって、一緒に汗を流してると、また素敵な仲間になれますよね。
    「隣は何をする人ぞ?」と言われてる今、安全に暮らす為にも「わがまち意識」の大切さを感じます。

    残念ながら、今日は雨になってしまいましたね。来週に延期ですか?
    頑張ってくださいね*\(^o^)/*


  • #1

    レインボー (土曜日, 13 6月 2015 23:02)

    素敵な箱ができたことでしょうね。
    写真のアップ、見たかったな(^^)
    オージョー、お疲れさまでした。

    「てるてる坊主てる坊主、明日、天気になぁれ♪♪」

48-母

 

第48話 「母」      by しまむらかずお

 

先週の土曜日。

母が救急車で運ばれた。

グループホームの昼食の直前に意識を失ったのだ。

 

93歳。このところ入退院を繰り返していた母だった。

脳梗塞のキャリアのある母は

SCU…脳系の集中治療室に運ばれた。

 

ひょっとしたら、ついに…、とも思い、

それを打ち消しつつ、病院に駆け付けた。

何本もの管を通され、大きな酸素マスクをつけた母の顔は

急に小さくなったように見えた。

 

「おばあちゃん!」と何度も呼びかけたが、反応はない。

目は閉じたまま、どこも動かない。

ほんの4日前には、車椅子に乗せて、リハビリに行ったばかり。

だいぶ前に言葉はなくしていたが、

私の言葉にうなづいたりして元気だった。

 

精密な検査が行われ、

ていねいな説明のうえで治療が行われた。

私には何もできない。

そのうち、妹も息子たちも駆けつけてきた。

病状を尋ね、処置を聞き、声をかけて、

やはりなすすべもなく、「また来るね」と言って帰って行った。

私もまた、同じように引き上げて来た。

看護師さんがつきっきりでいてくれる姿に頭を下げて。

 

どんな元気な人でも、いつかはいなくなる。

そんなことは分かってる。

けれど、一日でも長くと、みんなが思う。みんなに思う。

でもいつかはいなくなる。

命とはそういうものなのだ。

 

翌日、母親大会という名の集会があった。

そこで私は歌を歌うことになっていた。

何となく皮肉な感じもするが、これも巡り合わせなのかもしれない。

「親の死に目にも会えない」という言葉がよぎった。

 

それは、20分、3曲という短い出番だったが、

映像も使用することから、結構本格的な仕込みが必要で

朝早くからの積み込みや設営に多くのスタッフに汗をかいてもらった。

そして本番。

精一杯、一生懸命に歌いかけた。

想いが伝わる実感と、一体感のあるいい時間になったように思う。

みんなに感謝したい。

でもそんな時、申し訳ないが、母のことを思う隙間はなかった。

でも少し救われたような一日だった。

 

次の日、母に会いに行った。

前回とは違って、目が開いている。

酸素マスクは外され、鼻からのものに変わっていた。

「おばあちゃん、どう?」と声をかけた。

無論、返事はなかったが

明らかに生気を感じる。

手も動いている。

「今日は少しだけど、口から食事されました。」と聞いた。

良かった。心からそう思った。

とはいえ、まだまだ慎重な治療が必要だとのこと。

ゆっくりでいいから、快方に向かってほしいと願っている。

 

そんな折、高校生時代から存知上げているN先生の訃報が届いた。

先生には、「被災地にピアノを贈る運動」の香南大会で

民踊チームの出演・指導をしていただいた。

そのお願いにあがった折、久しぶりに会った私に

「上品な歳の取り方をしてるよね」と言って下さった方である。

聞けば、安芸市での指導を終えて帰宅され

ソファに座ったまま息を引きとられたとのこと。

確か90歳を越えてらっしゃる筈。

変な言い方にはなるが

何ともうらやましい大往生で、先生らしいとも思う。

ご冥福を祈りたい。

 

うらやましいと書いたが

私たちは死に方を選べない。

もちろん自殺を除くが

どんな原因で、どんなふうに亡くなるか

それがいつなのかも分からない。

 

でも、生き方は選ぶことはできる。

いつまで生きるかは分からないにしても

いや、例え、あと半年などと通告されたとしても

自分なりの生き方を選んで精一杯生きたいと思う。

それが生まれて来た者の努めだと思う。

 

人は生れて死んでゆく。

けれど死ぬために生まれたのでない。

生きるために、または他を生かすために生れたのだ。

 

私は生きる。生かされた人生を生きる。

だからこそ、私も人も、みんながいきいきと生きることができるよう

精一杯今からを生きる。

もっと生きたくても、生きられない人も沢山いる。

だからこそ、自分の生を全うするまで生きる。

精一杯今からを生きる。

 

命の限りを知る者は

命の尊さを知る者だ。

…そのことを先人たちは

無言の中に教えてくれる。

 

母と私の歴史は

まだまだ終わりはしない。

2015.6.10

 

 

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コメント: 7
  • #7

    あっぷる (火曜日, 23 6月 2015 21:20)

    義母を、急に病院に連れて行く出来事がありました。
    その時、ふと、思い出しました。
    KAZUOさんのお母さま、その後、ご安定されていますようにと…。

  • #6

    土佐のおんちゃん (水曜日, 17 6月 2015 12:13)

     私の母も家族の為に生きて、もうすぐ84歳に成ります
    陽水の歌では無いですが「人生が二度あれば・・」母の生き方はどうだったのでしょう
     そんな母を看てはただただ感謝です。

    お互いに長生きしていただきたいものですね。

  • #5

    花ちゃん (土曜日, 13 6月 2015 22:03)

    いくつとしを重ねても、
    母への思いは特別なのだな
    と、思いました。

    母にも、母がいたのですね。
    お母様はどのように、
    我が母を思ったでしょう。

    世界に一人だけ、
    自分の母。
    いつまでも、いつまでも、
    母と子の繋がりは、
    なくなりはしませんね。

    どうぞ、お母様が
    安心した日々を過ごせるよう
    回復をお祈りしています。

    私はまだ、死に方などと
    考えることができません。
    ずっと生きていたい。
    死にたくないです。
    若さでしょうか、
    未熟でしょうか。

    生きましょう。

  • #4

    フェアリー (木曜日, 11 6月 2015 13:45)

    “お母さん”って絶対的な存在ですよね。
    「お母さん見よってよ!」と、言って頑張った運動会。
    「良く頑張ったね。」
    と言って欲しくて、
    お母さんの喜ぶ顔が見たくて
    一生懸命だった日の事を
    ほんのこの前の様に思い出します。

    私も母になり、遅ればせながら少しは母の想いが分かる様になりました。
    何処に居ても子どもの
    「ただいま〜今日ね…」を待っているものです。
    これからもいきいき生きて、お母さんにお話に行ってあげてくださいね。
    私もいきいき生きる姿を見ながら、自分らしく精一杯生きて行きます。

  • #3

    sakura (木曜日, 11 6月 2015 13:14)

    時は止められないんですよね。
    どんな気持ちで過ごしても
    淡々と過ぎて行く。

    でも、どんな思いで過ごすかで
    全然違うものになってくる。
    せっかく 今を、生きている。
    幸い 健康に生きている。
    ならば
    素直に笑顔で居られる
    生き方をしたいなぁ。

    そんな事を考える時間を
    ありがとうございます。

    お母様とも
    これからも歴史を、重ねられます様に。

  • #2

    レインボー (水曜日, 10 6月 2015 23:31)

    お母さま、ご体調の安定が、少しでも長く続かれますように…。

  • #1

    ぴあの (水曜日, 10 6月 2015 16:22)

    精一杯今からを生きてください。

    わたしも。
    精一杯、生きたい。
    いきいきと、生きてゆきたい。

47-汗


第47話 「汗」      by しまむらかずお


(注:これは昨日の夜に書いたものです。)

 

今日は夕方からは雨だった。

そのせいか何だか蒸し暑くて眠られず、

ノコノコと起きてきた。

少し汗ばんでいる。

 

今日はちゃんと風呂にも入ってパジャマに着替えて

(注:普段は着のみ着のままくたばることが多い)

「さあ寝るぞ」とベッドに入り、

(注:普段は、ソファか床でくたばることが多い)

寝室の灯りを消してテレビを点けた。

いつもならそのテレビの音をBGMにして寝入り込んでしまうのに

今日は違った。

 

もはや深夜。

録画済みの番組をいくつか見たが寝つかれない。

そのうち、首が疲れて来て、枕の位置を反対にしたりしたが

それでもダメだった。

そうやって、もだえるように眠れぬ夜を過ごしている男の図。

喰えない図だ。

 

どうして眠れないのだろう。

先日出会ったちょっと奇麗な女性、その子のことを考えていて…

…そんな嬉しい事件は起きてない。

いや、そうではなくて、

6月の「Ksシアター」が、月に2回の開催となって、

それをどうしたものかと思い悩んで…

…それもない。

いやいや、やっぱり、

このところの安倍首相の言動から見えてくる

この国の将来への不安と、隣国の韓国や中国との関係が…

…それも気にはなるが、

今のところ、眠れないほどではない。

にもかかわらず、

♪眠れないのはどういう訳だ。(by陽水)

 

「そうだ!湿度が高いからだ」と、やや科学的に判断し

去年の秋に取り付けたばかりのエアコンを《除湿》にセット。

すると、涼しくなって…さらに目が冴えてしまった。

 

「そうだ!こんな時は一旦汗を流せば」と、生活の知恵的発想をして

シャワーを浴びた。

さっぱりして気持よくなった。

…が、余計にしっかりと目が覚めてしまった。

 

そこで、

「そうだ!酔ってしまえば眠れそう」と、すでにヤケ。

冷蔵庫を開けて氷をコップに入れて

ウイスキーを注いで水を足した。

真夜中の水割りもオツなものだ。

しばらくすると、ちょっと酔ってはきた。

…が、眠気にはつながらない。

 

しょーがないので

パソコン・ルームに来たが、なんと画面が立ち上がらない。

なんてことだ。

しょーがないので

元電源を抜いて、時間を置いて、先程何とか立ちあげた。

…で、今、このエッセイを書いている。

あ~あである。

 

でも、こうして書いているうちに、あくびが出始めた。

今だ! 今しかない!

寝てしまおう!

もしもそれでも眠れなかったら

もう一度、パソコンに向かって続きを書きます。

ちゃんと眠れたら、明日アップしますね。

それでは皆さん、おやすみなさい。

 

(注:そして今日の朝)

 

…あれから何とか眠れたので

約束どおりUPします。

これからの季節はさらに寝苦しい夜が増えそうですよね。

皆さん。工夫を重ねて、ぐっすりと寝られる体制をつくりましょうね。

 

それにしても、なんだこのエッセイは。

我ながら、冷や汗ものだ。

汗るぜ!

(2015.5.31)

 


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コメント: 4
  • #4

    土佐のおんちゃん (金曜日, 05 6月 2015 10:00)

     梅雨入りしたのに涼しい毎日です
    数日後には、またむしむしと寝苦しい日が来るのかなぁ

    気合を入れて乗り切ろう!

  • #3

    レインボー (月曜日, 01 6月 2015 23:24)

    「汗」

    次の夜は、眠れましたか?

  • #2

    花ちゃん (月曜日, 01 6月 2015 00:30)

    長々ダラダラムシムシジメジメと。
    いい大人(しまむらさん)が
    何をやっているんだ!!と、
    思いながら読みましたが、
    オチの汗るぜ!が秀逸すぎて、
    気候に反してスッキリな読み終わりですヽ(^ω^)ノ

    私も、長男が珍しく、
    うなされてゴゾゴゾして泣いたりして、
    熱もないのになんでやろう?と、
    思ってこっちまで眠れずにいて、
    夜中3時にやっと、除湿を起動したら、
    途端にスヤスヤと眠り始めた時には、
    「私のこれまでの苦労を返せ!」と、
    思いました。
    除湿は素晴らしい。
    つけすぎると喉が痛いので注意のようです...

    それにしても、しまむらさん。
    毎日お風呂に入って寝巻きを着て、
    布団に入って寝て下さい(*ω*)
    健康第一です(*ω*)

  • #1

    sakura (日曜日, 31 5月 2015 22:11)

    お疲れ様ですm(_ _)m
    夜中に一人で、なんやかやとしている姿を想像して笑ってしまいました。
    夜中のショップチャンネルで健康器具はいかがですか?
    いい汗がかけてグッスリ。
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46-話


第46話 「話」      by しまむらかずお

  

 

先月開いた私の独唱ライブ。

その感想を人づてに聞いた。

いわく、「しまむらさんて、面白い人やったがやねえ」…。

歌は聞いたことがあったが、ライブに来るのは初めての人だったという。

面白いというのは、どうやら「話が」ということらしい。

 

話が面白い?

じゃあ、歌はどうだったの?と訊きたくなるが

「それはもちろん良かった」とのこと。少し安心。

それにしても、私の歌は「面白くない人」の歌に聞こえるのだろうか。

あ、そうか、やっぱり、私の真面目な人柄が、歌に滲み出ているんだなあ。

…そう思うことにしようっと。

 

毎回のライブでは、実は、歌よりも話をどうするかが気になることがある。

特にソロとなると、余計に「どないしよう」と考えてしまう。

どんどんと歌ばっかり、ではお互いに疲れ果てる。

その間の話がライブ全体の雰囲気を作り上げるのだ。

 

とはいえ、たいがい、用意した話は、スベル。

考えて来たギャグは、間違いなくシーンとなる。

ネタを考えて練習して、しかも、ちゃんと笑いを取る芸人さんは、ホンマにエライ!

芸人ではないアタシは、このところ、ネタは仕込まないで、

おおよその話の流れを、曲の並べ方で作って、本番を迎える。

言いかえれば、歌いたい歌と、話したい話、その両方を組み合わせて

プログラムを作っている。

でも、本番の話の流れは決してその通りにはいかない。

いよいよ「話」というのは難しい。

 

「話す」は、「放す」ことではないかと思う。

自分の体内にあるものを放って渡す。

自分の中にないものや借りて来た言葉では「伝聞」に過ぎない。

やはり自分をかっこつけないで、素直に放すことこそが

共鳴や感動を産むのではないかと思う。

聞いた話より、体験した話の方がやはり胸に響くのだ。

 

それは歌でもそうだ。

どこかで聞いたような美しい言葉を並べ立てるだけでは

いい歌詞にはならないし、響かない。

百聞は一見にしかず。

百見は一体験にしかず。

聞くより見る。見るよりやってみる…

何ごとでもそうだと思う。

 

かといって、誰にも一生は一回。

そうそう別の生き方は体験できない。

しかし、歌の世界では、女にも男にもなる。

出会ったり離れたりの気持を歌う。

大切な人を亡くしたりもする。

すべてを体験している訳はない。

その辺りに実は矛盾がある。

 

しかし、お芝居でもそれは一緒だが

自分の中にある感情=実体験に基づく感情

それらを体内から取り出して、「拡大・再生産」するのだ。

だから、淋しい気持ちを拡大し、辛い思いを表現する景色を見せたり

嬉しい気持ちを大きく膨らませたりして、歌に載せる。

ストーリーは作り物でも、そこに表現したい心は本物なのだ。

言いかえれば、その気持を最も伝えやすいシュチュエーションを選ぶのだ。

それが創作なのだ。

もう一度言う。

創られた歌でも、伝える気持は本物なのだ。

 

と、ここまで書いて

ふっ、と筆が止まった。

私は一体何が言いたいのだろう。

そう思ってしまったのだ。

 

そうなのだ。

言いたいこと、伝えたいことがあるからこそ、話は進む。

ひたすらオチに向かって進む笑い話や

到達点を決めたレースのように

行き先と、その方向と、目指すゴールが、話にも必要だ。

それがないいままに、話し始めると

広がり過ぎたり、脇道にそれたりして、収捨がつかなくなる。

 

これはステージ・トークでも同じこと。

ただ、この場合は、笑いや拍手など、それなりの反応を得ながら

話を進めることが出来るが

このエッセイだとそれもない。

ただやみくもに書き進めばいいというものではない。

…うん、それは分かってる。

 

でも、先が見えないで立ち止まったり

ウロウロしているうちに、なんだか分からないところにいたり

いや、迷っていることすら分かってなかったり。

そんな心象風景をそのまま書きとめてしまうというのも

こんな気ままなエッセイのいいところなのかもしれない。

そのことで、逆に今の自分が見えてくる。

…うん、そういうことにしておこう。

 

それにしても話は難しい。

一方的にお話するのも難しい。

誰かとの対話もまた、難しい。

大勢の人たちと一緒の話し合い、これもさらに難しい。

 

ああ、ややこしい。

できたら黙っていたいものだ。

「でも、言わなきゃ、分かんないじゃないの」と皆さんはおっしゃる。

そりゃあ、そうだが、言ったことに責任を取るのが大人というもんだ。

だから、責任の取れないことには無口になる。

その結果、責任のないことをベラベラ喋ることになる。

大事なことは言わずに、余計なことばかりいっぱい言う。

無口、転じて六口となる。

…それがアタシ。

 

しかし、そんな無駄話と言われる中にも

真実が隠れていることがある。

例えば、「好き」とは一言も言わないのに

好きでなければ言えないことを一生懸命に語るとか、

「大嫌い」って言ってるのに

よくよく聞いていると「大好き」な思いが溢れていたりする。

いずれも、嘘でもこまかしでもない。

自分が気づいてない場合もある。

 

それにしても、たった二文字の「好き」が言えないで

それ以外の言葉を重ねて、何万語も語る。

そんな時代が私にもあった。

昔から、大事なことは言えないのだ。

しかし、世の中、「好き」と「嫌い」のたった二文字だけで

成立してはならない。

だから、「ちゃんと言ってよ」と言われても

うっかり言わない私です。

…なんだか、ごめんなさいです。

 

人を悪く言う人は、人から悪く言われる。

自分の正しさを主張するために一生懸命に

人を悪く言うことはよくある話。

だけど、それを聞かされている者は

そう言っている人自身を良くは思わないのです。

 

人を大切にする人は、人から大切にされる。

…そう言い切りたいところですが

なかなかそうとはならず、単に「お人良し」で終わるかもしれません。

それでもいいじゃないですか。

自分の自慢や、かっこつけのために語るのではなく

誰かのために自分を語る。

そうありたいものです。

 

相手の人への思いがちゃんとあるお話は

たとえヘタクソでも、オチはなくても

収拾がつかない話でも

きっと相手の胸に届くから。

2015.5.29

 

 


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コメント: 3
  • #3

    土佐のおんちゃん (金曜日, 05 6月 2015 09:53)

     私も人と人との会話を生業にしている職種なだけに大変勉強になる
    今回のお話でした。

    ありがとうございました。

  • #2

    レインボー (月曜日, 01 6月 2015 23:24)

    「話」

    リアルな話以上に、ずっと残るエッセイは、放す言葉に責任が残っていくかもでしょうに、長文をありがとうございます。
    話す…、放す…、相手に渡して大後悔した時など、特に信頼できるどなたかに、気を使わず甘えたいと思う時があります。

    読みながら、一人反省会していました。
    KAZUOさん、ありがとうございました。

  • #1

    フェアリー (日曜日, 31 5月 2015 12:38)

    思いを伝えるって難しいですよね。
    受け取る相手の状況がわからない、温度も 笑顔も 添えられないこのエッセイを続けて来られたKAZUO様は、すごいと思います。
    まさに「放す」んですものね。

    私がエッセイをみるのは、スマホで。だから、電車の待ち時間だったり、疲れて帰ってソファーに腰掛けた時だったり、そろそろ寝ようかな?と思うベッドの上だったり。
    今回は、計画通り予定が進まなくてちょっとイライラしてた時、「そう言えばエッセイが最近出てないなぁ」と思い出し、見つけました。
    「出てるじゃん!」(ちょっと元気)
    「え?どうなるのこのエッセイ…あ〜良かった」
    と読み終えると、自分のイライラは何処へやら。
    そうなんです。
    読み終えるといつもなんだかホッコリしてます。
    ありがとう*\(^o^)/*

    私なりに、KAZUO様の大きな愛情を受け取ってます。…と思わせといてください。
    (その10)の括りに入ったエッセイをこれからも楽しみにしています(*^^*)